2009-09-05 [Sat]
薬品の匂いと運動部の掛け声。冷たいリノリウムの床と淹れ立てのビーカーコーヒー。私がいつもの場所に座るとその横に先生も座る。
オレンジ色に照らされる先生の白衣はよく見ると小さなシミだらけで、この前うっかり硫酸をこぼしたときに開いた僅かな穴が袖口にある。この前私が直してあげたシャツの第二ボタンはしっかりと赤い糸で留まっていた。卒業まで落ちなきゃいいな。
「先生、何だか今日のコーヒー薄くないですか?」
「ピンポンです。実はインスタントコーヒーが若干足りなかったんですよ」
すいません、と笑う先生は私の頭を撫でる。二人で一人分なんてちょっと薄すぎるんじゃないかなって思っていたら、硬球がバットに当たる鈍い音が遠くから聞こえた。近くでは女の子がお喋りする笑い声。ありふれた放課後の風景が私たちには愛おしかった。
薄いカーテンの向こうを誰かが通るたびに私達は奇妙な高揚感を覚える。決して知られてはいけない恐怖とそれを楽しむ小悪魔な二人。扉に鍵もかけないままいつものように抱き合って見つめ合ってキスをする。先生からは薬品でもコーヒーでも、前に先生の部屋で見たフレグランスでもない、先生が全部混じったような素敵な香りがした。
「やっぱりこのコーヒー薄いです」
「じゃあ帰りに缶コーヒーでも買いましょ。ジャンケンに負けたほうのおごりという事で」
「先生一回もじゃんけんで勝った事がないじゃないですか」
「弱いんです、ジャンケン。君は強いんでしょ? 負けたところを見た事がない」
「不公平じゃないですか」
「ちょうどいいんですよ、僕が負けて、君が勝つ。それでバランスは取れます」
ジャンケンじゃいつも勝ってるのに、先生には勝てないなぁっていつも思う。前にそんな事を呟いてみたら、勝てないのはこっちです何て返って来た。
表裏一体、二人で一つ。半分しかない未熟な私達だけど、二人で一人ならちょうどいいんじゃないかなって思った。
オレンジ色に照らされる先生の白衣はよく見ると小さなシミだらけで、この前うっかり硫酸をこぼしたときに開いた僅かな穴が袖口にある。この前私が直してあげたシャツの第二ボタンはしっかりと赤い糸で留まっていた。卒業まで落ちなきゃいいな。
「先生、何だか今日のコーヒー薄くないですか?」
「ピンポンです。実はインスタントコーヒーが若干足りなかったんですよ」
すいません、と笑う先生は私の頭を撫でる。二人で一人分なんてちょっと薄すぎるんじゃないかなって思っていたら、硬球がバットに当たる鈍い音が遠くから聞こえた。近くでは女の子がお喋りする笑い声。ありふれた放課後の風景が私たちには愛おしかった。
薄いカーテンの向こうを誰かが通るたびに私達は奇妙な高揚感を覚える。決して知られてはいけない恐怖とそれを楽しむ小悪魔な二人。扉に鍵もかけないままいつものように抱き合って見つめ合ってキスをする。先生からは薬品でもコーヒーでも、前に先生の部屋で見たフレグランスでもない、先生が全部混じったような素敵な香りがした。
「やっぱりこのコーヒー薄いです」
「じゃあ帰りに缶コーヒーでも買いましょ。ジャンケンに負けたほうのおごりという事で」
「先生一回もじゃんけんで勝った事がないじゃないですか」
「弱いんです、ジャンケン。君は強いんでしょ? 負けたところを見た事がない」
「不公平じゃないですか」
「ちょうどいいんですよ、僕が負けて、君が勝つ。それでバランスは取れます」
ジャンケンじゃいつも勝ってるのに、先生には勝てないなぁっていつも思う。前にそんな事を呟いてみたら、勝てないのはこっちです何て返って来た。
表裏一体、二人で一つ。半分しかない未熟な私達だけど、二人で一人ならちょうどいいんじゃないかなって思った。
PR
2009-09-05 [Sat]
好きだよって言ったら嫌いって彼女は言った。どうして嫌いなの? なんだか悲しくて本当になっちゃん俺の事嫌いなのって聞いたら彼女は俺の口を塞いだ。
「弥太の声でそんな事言わないでください」
ふーんそっか、なっちゃんこいつの事好きなんだ。そうだそうだ、忘れてた。弥太郎はいっつも俺だから。
そういえば前に言ってたよこいつ。夏輝で遊ぶなって、これ以上傷つけるなって。何だお前ら相思相愛か、若いくせに恋愛語ってるんじゃないよ。おかしくなりそうなんだって二人とも。弥太郎の声で俺に囁かれて、自分の身体でなっちゃんに触られて。
もういっそのこと二人とも壊してあげようか。弥太郎と俺が一つになってなっちゃんが俺を好きになってくれれば何も問題はないじゃない。
―――彼はこの娘の事を何と呼んでたっけ。
「夏輝」
ピクリと肩が震える。服を握る手にだんだんと力が込められて来た。ああ、そんなに握ったら破れちゃうよ。破れてもいいけどきっとなっちゃんはそのままぎゅってし続けて、自分自身でさえ切り裂いてしまうでしょ? だからもう止めなさい、そんな馬鹿な事は。
「夏輝、好きだよ」
いやだいやだとなっちゃんは首を小さく横に振る。ごめんね、だって本当に好きなんだもん。狼の姿でも羊の皮を被ってみても君に俺の本当の声は聞こえないでしょ? 俺の声ってどんなのだっけ、なんかえらく低かったような気がする。
「夏輝」
うわ言みたいに名前を呼べば彼女は震えて拒絶する。暴れないように両腕で抱きしめてやれば素直に胸に顔を埋めてきた。
なっちゃんは素直で可愛いなあ。これが俺の体だったらいいのにな、若くて綺麗で背も高くて、俺も高かったけどもうちょっとだけ低かったような気がする。
そういえば俺の身体って今どうなってんのかな、抜け殻でも歳は取るのかな。だったら俺もう爺さんじゃん、駄目だそんなの、なっちゃんと一緒にいられない。変わってなければいいなあ。なっちゃん今幾つだっけ? ねえ、身体探すのやめようか? 二十年後にもう一回探そう? そしたら俺なっちゃんと一緒にいられるんだ、同じような歳で、自分の身体でなっちゃんを愛せるんだよ。
「好きだよ?」
小さな彼女が胸の中で泣き崩れるのと、身体の中で哀しい悲鳴が上がったのは同時だった。
「弥太の声でそんな事言わないでください」
ふーんそっか、なっちゃんこいつの事好きなんだ。そうだそうだ、忘れてた。弥太郎はいっつも俺だから。
そういえば前に言ってたよこいつ。夏輝で遊ぶなって、これ以上傷つけるなって。何だお前ら相思相愛か、若いくせに恋愛語ってるんじゃないよ。おかしくなりそうなんだって二人とも。弥太郎の声で俺に囁かれて、自分の身体でなっちゃんに触られて。
もういっそのこと二人とも壊してあげようか。弥太郎と俺が一つになってなっちゃんが俺を好きになってくれれば何も問題はないじゃない。
―――彼はこの娘の事を何と呼んでたっけ。
「夏輝」
ピクリと肩が震える。服を握る手にだんだんと力が込められて来た。ああ、そんなに握ったら破れちゃうよ。破れてもいいけどきっとなっちゃんはそのままぎゅってし続けて、自分自身でさえ切り裂いてしまうでしょ? だからもう止めなさい、そんな馬鹿な事は。
「夏輝、好きだよ」
いやだいやだとなっちゃんは首を小さく横に振る。ごめんね、だって本当に好きなんだもん。狼の姿でも羊の皮を被ってみても君に俺の本当の声は聞こえないでしょ? 俺の声ってどんなのだっけ、なんかえらく低かったような気がする。
「夏輝」
うわ言みたいに名前を呼べば彼女は震えて拒絶する。暴れないように両腕で抱きしめてやれば素直に胸に顔を埋めてきた。
なっちゃんは素直で可愛いなあ。これが俺の体だったらいいのにな、若くて綺麗で背も高くて、俺も高かったけどもうちょっとだけ低かったような気がする。
そういえば俺の身体って今どうなってんのかな、抜け殻でも歳は取るのかな。だったら俺もう爺さんじゃん、駄目だそんなの、なっちゃんと一緒にいられない。変わってなければいいなあ。なっちゃん今幾つだっけ? ねえ、身体探すのやめようか? 二十年後にもう一回探そう? そしたら俺なっちゃんと一緒にいられるんだ、同じような歳で、自分の身体でなっちゃんを愛せるんだよ。
「好きだよ?」
小さな彼女が胸の中で泣き崩れるのと、身体の中で哀しい悲鳴が上がったのは同時だった。
2009-03-06 [Fri]
声が跳ねる、音が跳ねる、跳ねて、跳ねて、消えて行く。その末路は何時だって深い闇だ。行き場の無い狭い世界を唯垂直に落ちていくだけの人形の様に、暗い重力に引き寄せられた左手は一寸たりとも動かない。
右手は。何を思ったのか頭上に翳してみた。そこにはもう何もないのに、妬け付くように照らしてくれる、このおぼつかない身体に生を感じさせてくれる光など何処にもないのに、此処は一抹の希望さえもあってはならない場所なのだ。
誰かの嘘を知ったこの身体はもう綺麗なままで居られない。それはまるで丁寧に依られた糸がゆっくりとほどけて行く様な酷い脆さで、泣き出した少女の小さな手を望んで放した。緩やかに笑みを浮かべる少女の顔が僅かにずれる様に誰かの顔と重なった。
ああ、誰だっけ、あなたは。左手が動けば思い出すのかもしれないけれど、そんな事お構いなしに世界に引きずり込まれている。きっともう、思い出す資格さえないのだ、此処は一番遠い場所だから。
ごめん、ごめんね、その光は濁ってしまったんだ。少女に重なった別の光は艶やかに絡み合ってまた別の少女を産み出して行く。次に眼を開いた時一面に広がるのは朝が明ける色だった。
選び取ったのか惑わされたのか、その答えが解らないうちはきっと深淵をさ迷い続ける。
右手は。何を思ったのか頭上に翳してみた。そこにはもう何もないのに、妬け付くように照らしてくれる、このおぼつかない身体に生を感じさせてくれる光など何処にもないのに、此処は一抹の希望さえもあってはならない場所なのだ。
誰かの嘘を知ったこの身体はもう綺麗なままで居られない。それはまるで丁寧に依られた糸がゆっくりとほどけて行く様な酷い脆さで、泣き出した少女の小さな手を望んで放した。緩やかに笑みを浮かべる少女の顔が僅かにずれる様に誰かの顔と重なった。
ああ、誰だっけ、あなたは。左手が動けば思い出すのかもしれないけれど、そんな事お構いなしに世界に引きずり込まれている。きっともう、思い出す資格さえないのだ、此処は一番遠い場所だから。
ごめん、ごめんね、その光は濁ってしまったんだ。少女に重なった別の光は艶やかに絡み合ってまた別の少女を産み出して行く。次に眼を開いた時一面に広がるのは朝が明ける色だった。
選び取ったのか惑わされたのか、その答えが解らないうちはきっと深淵をさ迷い続ける。
|HOME|