2008-05-14 [Wed]
夢を見ると言った。
それは遠い昔の事なのに生々しすぎるほどにリアルで、八十年も昔の事なのに肉を切る感触も血に濡れた生温さも全てが鮮明に蘇る様で、忘れた頃にやって来てはとっくに許されてもいいはずの押し付けられた重い罪を背負わせて帰って行くのだという。
「さて、私達はどうしますか?」
先生は何も無かったかの様に笑う。昨日の朝まで泣きそうな顔をして過去を見ていたのと同じ顔で今日は明日を見ながら笑っている。一緒に過ごす様になってもうずいぶん経つのに、こんなにも穏やかな先生を見たのは初めてだった。
黒い瞳の少女を連れた赤毛の彼と出逢ったのはつい昨日の事だった。夕焼けを映した様な赤銅色の頭に加えて隻腕というどう見ても悪目立ちする彼に違和感を覚えたのが最初だった。私は妙な既視感を覚えて、たまたま席を外していた先生が戻って来るまでの間の暇潰し程度に彼をこっそり見つめていた。背の高い彼は誰もいないのに誰かと喋っている様な素振りを見せていたが、黒い髪をした小柄な少女が戻って来るとその少女を交えて会話を始めた。
こっそり見つめていたはずなのにいつの間にか彼と眼が合って、すごく不機嫌そうな声で何? と声をかけられてしまった。別に何があって見つめていたわけではないし(カッコいいので眼の保養にはなるけれどどう見たってうちの先生の勝ちだ)答えあぐねているとやがて彼は口の端を歪めて不敵な笑みを浮かべて、
「何、その娘お前の連れ? 久しぶりだな」
私の後ろで呆然と立ち尽くして彼を見ていた先生に声をかけた。
「二人は船に乗るそうですよ。入れ違いになりましたね」
つい数日前に渡った砂の海を見ながら先生は言った。赤毛の彼までがこの街にいたのだからここに留まるのはデメリットでしかない。悪目立ちする彼のせいで先生が教会兵に捕まったりでもしたら、私はきっとあの赤銅色を殺しに行くだろう。
「やっぱり電車がいいですか? 貴女の好きな場所に行きましょう」
私はもう世界中を見て回りましたからと言って笑う先生はいつもの暗い面影なんて微塵も無くて、世界が反転してしまったかのように楽しそうだった。
「先生、今日はどうしたんですか?」
「何がですか?」
「だって先生、何だかすっごく楽しそうですよ」
「そうですか?」
「そうですよ」
「そうですね」
「どうしてですか?」
どうしてだろう。どうしてこんなに晴々とした表情で笑うのだろうか。私は先生にこんな風に笑って欲しかっただけのはずなのにそうなったらそうなったで戸惑うなんて我侭で気紛れな性質の悪い子供みたいだった。
「彼が笑っていたからじゃないですか?」
まるで世界が拒んでしまったかのように理解が出来なかった。別に彼は笑っていなかった気がするし、むしろどちらかといえば怖い印象しかなかったはずなのにそれでも先生は彼のことを幸せそうだったと言う。
「昔はあんなに柔らかい雰囲気じゃありませんでしたよ。それにあの女の子をとっても大事にしてるじゃないですか」
だからね、それで十分だと思ったんです。先生はそう言ってまた幸せそうに笑った。私にはその笑みが遠い国の小説で見た様な死に際の笑顔に見えて酷く怖かった。先生はそんな私の些細な恐怖など気にしていないかのように笑う。
「一緒にいられる限り、それ以上に貴女を大事にしたいと思えたんです」
貴女は私に生きる希望や気力や、もっといろんな、暖かくて大切なものを与えてくれた人ですから。
どんなにその生が理不尽だったとしても先生はこの先ずっと私が死んでも未来永劫行き続けなくちゃならなくて、そこにはどんなに悲しくて辛くて捨ててしまいたいくらいの記憶しか共にいない。それでもきっと先生は生きるという覚悟を初めて手に入れたのかもしれない。どんなに仕方の無い事だったとしても過去が罪であったということは先生は薄々気付いていて、それはどんなに私やあの子が許しても決して世界からは許されない二人が抱えた罪だったとしても、例え否定された覚悟であったとしても先生はこの世界を生きようと思ってくれた。私にはそれで十分だった。
「先生、電車に乗りましょう」
そしてまた先生は笑う。どこへ行きましょうか? 世界を見て回るのは貴女の番ですよと。そして私も笑う。例え私の世界が先生よりも少なくて短くて狭くてどうしようもなく限られたものだとしても、私達は一緒に生きていられる限り二人で笑っていたい。ただそれだけでよかった。
それは遠い昔の事なのに生々しすぎるほどにリアルで、八十年も昔の事なのに肉を切る感触も血に濡れた生温さも全てが鮮明に蘇る様で、忘れた頃にやって来てはとっくに許されてもいいはずの押し付けられた重い罪を背負わせて帰って行くのだという。
「さて、私達はどうしますか?」
先生は何も無かったかの様に笑う。昨日の朝まで泣きそうな顔をして過去を見ていたのと同じ顔で今日は明日を見ながら笑っている。一緒に過ごす様になってもうずいぶん経つのに、こんなにも穏やかな先生を見たのは初めてだった。
黒い瞳の少女を連れた赤毛の彼と出逢ったのはつい昨日の事だった。夕焼けを映した様な赤銅色の頭に加えて隻腕というどう見ても悪目立ちする彼に違和感を覚えたのが最初だった。私は妙な既視感を覚えて、たまたま席を外していた先生が戻って来るまでの間の暇潰し程度に彼をこっそり見つめていた。背の高い彼は誰もいないのに誰かと喋っている様な素振りを見せていたが、黒い髪をした小柄な少女が戻って来るとその少女を交えて会話を始めた。
こっそり見つめていたはずなのにいつの間にか彼と眼が合って、すごく不機嫌そうな声で何? と声をかけられてしまった。別に何があって見つめていたわけではないし(カッコいいので眼の保養にはなるけれどどう見たってうちの先生の勝ちだ)答えあぐねているとやがて彼は口の端を歪めて不敵な笑みを浮かべて、
「何、その娘お前の連れ? 久しぶりだな」
私の後ろで呆然と立ち尽くして彼を見ていた先生に声をかけた。
「二人は船に乗るそうですよ。入れ違いになりましたね」
つい数日前に渡った砂の海を見ながら先生は言った。赤毛の彼までがこの街にいたのだからここに留まるのはデメリットでしかない。悪目立ちする彼のせいで先生が教会兵に捕まったりでもしたら、私はきっとあの赤銅色を殺しに行くだろう。
「やっぱり電車がいいですか? 貴女の好きな場所に行きましょう」
私はもう世界中を見て回りましたからと言って笑う先生はいつもの暗い面影なんて微塵も無くて、世界が反転してしまったかのように楽しそうだった。
「先生、今日はどうしたんですか?」
「何がですか?」
「だって先生、何だかすっごく楽しそうですよ」
「そうですか?」
「そうですよ」
「そうですね」
「どうしてですか?」
どうしてだろう。どうしてこんなに晴々とした表情で笑うのだろうか。私は先生にこんな風に笑って欲しかっただけのはずなのにそうなったらそうなったで戸惑うなんて我侭で気紛れな性質の悪い子供みたいだった。
「彼が笑っていたからじゃないですか?」
まるで世界が拒んでしまったかのように理解が出来なかった。別に彼は笑っていなかった気がするし、むしろどちらかといえば怖い印象しかなかったはずなのにそれでも先生は彼のことを幸せそうだったと言う。
「昔はあんなに柔らかい雰囲気じゃありませんでしたよ。それにあの女の子をとっても大事にしてるじゃないですか」
だからね、それで十分だと思ったんです。先生はそう言ってまた幸せそうに笑った。私にはその笑みが遠い国の小説で見た様な死に際の笑顔に見えて酷く怖かった。先生はそんな私の些細な恐怖など気にしていないかのように笑う。
「一緒にいられる限り、それ以上に貴女を大事にしたいと思えたんです」
貴女は私に生きる希望や気力や、もっといろんな、暖かくて大切なものを与えてくれた人ですから。
どんなにその生が理不尽だったとしても先生はこの先ずっと私が死んでも未来永劫行き続けなくちゃならなくて、そこにはどんなに悲しくて辛くて捨ててしまいたいくらいの記憶しか共にいない。それでもきっと先生は生きるという覚悟を初めて手に入れたのかもしれない。どんなに仕方の無い事だったとしても過去が罪であったということは先生は薄々気付いていて、それはどんなに私やあの子が許しても決して世界からは許されない二人が抱えた罪だったとしても、例え否定された覚悟であったとしても先生はこの世界を生きようと思ってくれた。私にはそれで十分だった。
「先生、電車に乗りましょう」
そしてまた先生は笑う。どこへ行きましょうか? 世界を見て回るのは貴女の番ですよと。そして私も笑う。例え私の世界が先生よりも少なくて短くて狭くてどうしようもなく限られたものだとしても、私達は一緒に生きていられる限り二人で笑っていたい。ただそれだけでよかった。
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