[1]
[2]
2008-12-17 [Wed]
「もう、どうしていつも隊長はそうなんですか!?」
隊舎中に響き渡るような大声で怒鳴りつけるのもいつもの事だった。どうして彼はいつもこうなのだろう。何故いつもまともに受け答えすらしてくれないのだろう。今だって適当にははは、と笑いながら酒をたしなんでいる。まだ昼間だというのに、というのもいつもの事だった。
粋なつもりか常に羽織っている女物の派手な着物を床に敷いてその上に転がり、長く結わえた髪に刺された簪を取るとおもむろにこちらに向けて来た。
「七緒ちゃんもさあ、そんな仕事ばっかしてないでたまにはおしゃれとかさ、いろいろ楽しんでみたらどう?」
「なら私が少しでも自由になるように真面目に働いて頂けますか」
紳士を気取っている割に女心を知らない男なのだ、彼は。前々から解っていた事ではあってもやはりそれなりに傷付くもので、簪を乱暴に取り上げて放り投げるとようやくまともに取り合ってくれる気になったのか、よっこらしょと面倒そうに身体を起こした。
「あーあ。あれ高かったのに」
「高いものを所望するならそれ相応の働きをして頂きたいと言ってるんです! もう、私がいなくなったら如何なさるおつもりですか!?」
不意に右手首を強く掴まれたかと思うと、考える間もなく次の瞬間にはもう広い胸の中にすっぽり収まってしまっていた。何が何だか理解しようと頭を上げると、抱きしめられるように大きな掌で押さえ込まれる。
男の人の匂いがする。そんな物知る訳が無いのにそう感じたのは何故だろう。何所か懐かしいような、愛しい匂い。騙されてはいけないと解っていても、どうしてあんなに苛立っていたのか解らないくらいに全てが満たされるような幸福だった。
「……京楽隊長?」
女性を見てだらしなく緩んだ顔も、酔い潰れてふらふらと踊るような後ろ姿も、確かに頼りになる腕も全部見て来たつもりだったのに、こんなにも儚げなこの人には初めて会う。それは間違いなく本当は強くて素敵な彼のはずなのに、これじゃまるで弱々しくて行き場をなくした子供のようだ。
「七緒ちゃんは」
「え?」
「七緒ちゃんは、いなくなったりしないでしょ?」
「隊長?」
「如何したんですか、隊」
最後まで言わせてすらくれなかった。すっと優しく顎に触れて口唇を一瞬奪っていくその優雅さはやはりさすがと言えるのだろう。珍しく黙って真剣に見つめて来るその眼差しが妙に悲しくて痛かった。
核心に触れてもいいのだろうか。真実に近しいだろうそれを口にしてしまっていいのだろうか。もし答えがあるのなら誰かに教えて欲しい、その答えを。彼を傷つけない言葉を。
「もう、あんなのはゴメンだよ」
「……置いて行かれたのですか、愛しい人に」
僅かに身体が震えたようだった。抱きしめる腕に一層力が込められたが苦しくは無い。私にとってはむしろ心地よい。苦しいのはこの人なのだ。
面倒を押し付けるくらいなら最後まで全部押し付けて欲しい。大変なのには慣れてしまったのだから。
「憎いんだ、あの子が」
ぽつりぽつりと紡ぎ出した彼の言葉は意外な物だった。愛しかったのではないだろうか、悲しかったのではないだろうか、彼の何分の一の人生も生きていない私には到底理解出来ない感情なのだということは理解出来た。
「どうして僕の前からいなくなっちゃったのかとか、あの時一体何があったのかとか、考えれば考えるほど解んなくなっちゃうんだよ。それは仕方の無い事で僕にもあの子にもどうにも出来なかった事なんだって、解ってはいるんだよ、言い聞かせてはいるんだよ、それでも」
「大丈夫です。言いましたよね、三歩下がって貴方に着いて行くと。私が一度言った事に責任を持たないとでも?」
何が大丈夫なのか自分でも解らない。ただ大丈夫だと言ってあげたかったのだ。儚い彼は嫌いではないが見ていたくは無い。
僅かに動く度に足元で布の擦れる音がする。安物の着物が皺になるなんてどうでもいい事だった。高価な簪に傷が付こうとも関係の無い事なのだ。金銭でどうにかなる物なんて今の私達には必要無い。今こうして直に触れ合って、体温も呼吸も鼓動も、命の一つ一つを重ね合わせて共有しているこの瞬間が何よりも大切なのだ。
「憎むのが辛いなら私も一緒に憎んで差し上げますよ」
だからたまには仕事も手伝ってくださいねなんて付け足すと、一瞬だけ彼が微笑むのが見えた。彼の愛しかった人は今頃何処で何をしているのだろうか。生きているのか、死んでいるのか。もし生きているのなら、二人もの、しかも片方はまったく知らないような女に憎まれているだなんて思いもしないだろう。
誰かの名前を呟いたようだが、聞こえないふりをしておいた。
隊舎中に響き渡るような大声で怒鳴りつけるのもいつもの事だった。どうして彼はいつもこうなのだろう。何故いつもまともに受け答えすらしてくれないのだろう。今だって適当にははは、と笑いながら酒をたしなんでいる。まだ昼間だというのに、というのもいつもの事だった。
粋なつもりか常に羽織っている女物の派手な着物を床に敷いてその上に転がり、長く結わえた髪に刺された簪を取るとおもむろにこちらに向けて来た。
「七緒ちゃんもさあ、そんな仕事ばっかしてないでたまにはおしゃれとかさ、いろいろ楽しんでみたらどう?」
「なら私が少しでも自由になるように真面目に働いて頂けますか」
紳士を気取っている割に女心を知らない男なのだ、彼は。前々から解っていた事ではあってもやはりそれなりに傷付くもので、簪を乱暴に取り上げて放り投げるとようやくまともに取り合ってくれる気になったのか、よっこらしょと面倒そうに身体を起こした。
「あーあ。あれ高かったのに」
「高いものを所望するならそれ相応の働きをして頂きたいと言ってるんです! もう、私がいなくなったら如何なさるおつもりですか!?」
不意に右手首を強く掴まれたかと思うと、考える間もなく次の瞬間にはもう広い胸の中にすっぽり収まってしまっていた。何が何だか理解しようと頭を上げると、抱きしめられるように大きな掌で押さえ込まれる。
男の人の匂いがする。そんな物知る訳が無いのにそう感じたのは何故だろう。何所か懐かしいような、愛しい匂い。騙されてはいけないと解っていても、どうしてあんなに苛立っていたのか解らないくらいに全てが満たされるような幸福だった。
「……京楽隊長?」
女性を見てだらしなく緩んだ顔も、酔い潰れてふらふらと踊るような後ろ姿も、確かに頼りになる腕も全部見て来たつもりだったのに、こんなにも儚げなこの人には初めて会う。それは間違いなく本当は強くて素敵な彼のはずなのに、これじゃまるで弱々しくて行き場をなくした子供のようだ。
「七緒ちゃんは」
「え?」
「七緒ちゃんは、いなくなったりしないでしょ?」
「隊長?」
「如何したんですか、隊」
最後まで言わせてすらくれなかった。すっと優しく顎に触れて口唇を一瞬奪っていくその優雅さはやはりさすがと言えるのだろう。珍しく黙って真剣に見つめて来るその眼差しが妙に悲しくて痛かった。
核心に触れてもいいのだろうか。真実に近しいだろうそれを口にしてしまっていいのだろうか。もし答えがあるのなら誰かに教えて欲しい、その答えを。彼を傷つけない言葉を。
「もう、あんなのはゴメンだよ」
「……置いて行かれたのですか、愛しい人に」
僅かに身体が震えたようだった。抱きしめる腕に一層力が込められたが苦しくは無い。私にとってはむしろ心地よい。苦しいのはこの人なのだ。
面倒を押し付けるくらいなら最後まで全部押し付けて欲しい。大変なのには慣れてしまったのだから。
「憎いんだ、あの子が」
ぽつりぽつりと紡ぎ出した彼の言葉は意外な物だった。愛しかったのではないだろうか、悲しかったのではないだろうか、彼の何分の一の人生も生きていない私には到底理解出来ない感情なのだということは理解出来た。
「どうして僕の前からいなくなっちゃったのかとか、あの時一体何があったのかとか、考えれば考えるほど解んなくなっちゃうんだよ。それは仕方の無い事で僕にもあの子にもどうにも出来なかった事なんだって、解ってはいるんだよ、言い聞かせてはいるんだよ、それでも」
「大丈夫です。言いましたよね、三歩下がって貴方に着いて行くと。私が一度言った事に責任を持たないとでも?」
何が大丈夫なのか自分でも解らない。ただ大丈夫だと言ってあげたかったのだ。儚い彼は嫌いではないが見ていたくは無い。
僅かに動く度に足元で布の擦れる音がする。安物の着物が皺になるなんてどうでもいい事だった。高価な簪に傷が付こうとも関係の無い事なのだ。金銭でどうにかなる物なんて今の私達には必要無い。今こうして直に触れ合って、体温も呼吸も鼓動も、命の一つ一つを重ね合わせて共有しているこの瞬間が何よりも大切なのだ。
「憎むのが辛いなら私も一緒に憎んで差し上げますよ」
だからたまには仕事も手伝ってくださいねなんて付け足すと、一瞬だけ彼が微笑むのが見えた。彼の愛しかった人は今頃何処で何をしているのだろうか。生きているのか、死んでいるのか。もし生きているのなら、二人もの、しかも片方はまったく知らないような女に憎まれているだなんて思いもしないだろう。
誰かの名前を呟いたようだが、聞こえないふりをしておいた。
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2008-12-17 [Wed]
自殺癖のある男だった。背が高くて細くて色が白くて何所か影のある、所謂薄幸の美青年であるその男は繁華街の外れに仰々しく佇む高級マンションに暮らしていて、気が向いた時に尋ねてみれば首を吊っていたり手首を切っていたり睡眠薬のオーバードーズなんていつもの事で、果ては一時期話題になったナントカ水素を発生させてみたりと何ともまあお騒がせな奴だった。
しかも何故だかこちらが尋ねるタイミングを見計らったかのように自殺行為をしてみせる。一種の歓迎のつもりなのだろうか。
一度いつも持ち歩いているはずの合鍵が見つからず入るのに手間取った事があったのだがその時は酷かった。数分かけて鞄の底から発見したはいいが、上がりこんでみれば何待たせてるんですかと言わんばかりに湯船が真っ赤に染まっていた。もう何十回と付き合っているが病院沙汰になったのはあれっきりだ。
さすがにもう死んだと思ってやっと解放されると安堵したのにしぶとく生き残りやがって、しかも目覚めて早々へらへら笑いながら死ぬかと思いましたなんて言うもんだから思わず鼻っ柱をへし折ってしまった。もう何十回と喧嘩もしているが警察沙汰になりそうだったのはあれっきりだ。
そして今日もまた男は自殺に興じる。いつものようにチャイムも鳴らさず勝手に部屋に上がりこむと、リビングの端っこで程よい高さの台に乗り、天井から吊るされたロープで結われた輪の中に首をかける瞬間の男と遭遇した。
眼が合った。
「……後は台を蹴れば完成?」
「まあそんなとこです。蹴ります?」
「いや遠慮しとく。それより喉渇いたんだけど」
「コーヒーならありますよ」
「ミルクとあと砂糖も頼むわ」
すんなりと台から降りてくれたので、コーヒーを用意してくれている間にロープを解いて台を片付ける。簡単に心変わりするくらいならいっその事そのままどちらかに傾いて欲しい。
「どうぞ」
出て来たのは有り触れたインスタントコーヒーだった。やたら高価そうなカップとソーサーとは妙なバランスを保っている。男の淹れる物は実家で父親がこだわっていた物より若干薄くてミルクが多い。適当に座り込んで熱いそれに口を付けながら男の様子をちらりと窺ったが特にこれといって変わりはない。強いて言うなら手首の傷が少し増えたくらいだ。よく見ると男のシャツの胸ポケットから切れ味鋭い剃刀が顔を覗かせていた。
「もう少しで死ねたんですけどねぇ」
「助けなきゃそれはそれで怒るだろ」
「どうでしょうね」
すまし顔でコーヒーに口を付ける。コーヒーに何か仕込まれているのではないかという考えが一瞬だけ脳裏を過ぎったがそれはありえないだろう。一瞬で死ねるような、例えば青酸カリのような劇薬など使うわけがない。基本的に臆病なのだ、この男は。その証拠に未だすましたままコーヒーを啜り続けている。いっその事カフェインの過剰摂取で死ねばいいのに。
「ていうか他にバリエーションは無いわけ」
「じゃあ紅茶でも買っときますよ」
「だったらアールグレイがいいんだけどそういう事ではなくて」
「ああ、そりゃ放火して焼死とかでもいいんですけど、ちょっとリスクが高いし第一他人様に迷惑かけるじゃないですか」
硫化水素は迷惑の域に分類されないようだ。この男の頭の中では他人様よりも自分の方が優先されるのは間違いない。
「そんなに死にたきゃ静かな所で死ねばいいだろ」
「だからこうやって静かな所でひっそり死のうとしてるじゃないですかぁ。邪魔してるのは君でしょ?」
繁華街の喧騒に塗れた誰もが羨む高級マンションの一室というのは、一般的にひっそりとした場所として認識されていると考えていいものなのだろうか。空になったカップの底に溜まった砂糖の欠片を見つめながら考えていた。
「第一発見者になってやろうと思って」
立ち上がった男にカップを手渡すと、そのままキッチンへと向かっていった。かちゃかちゃと陶器の触れ合う音とそれを操る男の後ろ姿をぼんやりと見つめながら無機質なフローリングに転がった。
「要りませんよそんなもの」
男にこんな暮らしをさせておいて顔すら見せないようなパトロンが何をしているのかはちっとも知らない。少なくとも顔を見たことはないし、会っている様子もない。初めは寂しいのだろうと思っていたのだが徐々に違うような気がして来た。男が求めている物は金とか愛とかそういう範疇を遥かに超越しているのだ。
「なおの事樹海でも行けよ、コンパス持って」
「面倒じゃないですか」
自殺未遂を繰り返すよりはよっぽどマシな気もするのだが。気付けばまたロープを取り出して天井から吊るそうとしているではないか。さすがに眼の前で一から自殺行為を見せられるのは気分が悪い。垂れ下がった先に小さな輪が出来上がった辺りで止めようと身体を起こすと、男はまるでおもちゃを見つけた小さな子供のような顔をこちらに向けて来た。
「練習させてくださいな」
「練習?」
「そ、練習。今のままじゃ死に切れないって事がよく解ったんです。だから練習させてください」
アナタの首で。そう簡単に言ってのける男は心底楽しそうだった。もう何十回とこの部屋を訪れているが、帰れないなんて思ったのはきっとこれっきりになるだろう。
まるで男の魔の手に落ちたかのように身体はぴくりとも動かない。抵抗も反論も許されないままゆっくりと首に輪がかけられる。男の手は美しかった。あらためて間近で見ると、瞳も、鼻も、肌理細やかな肌もそのバランスの全てが美しいのだ。形の良い唇が優しく別れの言葉を囁く。今度こそ本当に彼の自殺癖から解放されるのかと安堵した瞬間ロープが強く引かれた。
自身を含めた殺人癖のある男だった。
しかも何故だかこちらが尋ねるタイミングを見計らったかのように自殺行為をしてみせる。一種の歓迎のつもりなのだろうか。
一度いつも持ち歩いているはずの合鍵が見つからず入るのに手間取った事があったのだがその時は酷かった。数分かけて鞄の底から発見したはいいが、上がりこんでみれば何待たせてるんですかと言わんばかりに湯船が真っ赤に染まっていた。もう何十回と付き合っているが病院沙汰になったのはあれっきりだ。
さすがにもう死んだと思ってやっと解放されると安堵したのにしぶとく生き残りやがって、しかも目覚めて早々へらへら笑いながら死ぬかと思いましたなんて言うもんだから思わず鼻っ柱をへし折ってしまった。もう何十回と喧嘩もしているが警察沙汰になりそうだったのはあれっきりだ。
そして今日もまた男は自殺に興じる。いつものようにチャイムも鳴らさず勝手に部屋に上がりこむと、リビングの端っこで程よい高さの台に乗り、天井から吊るされたロープで結われた輪の中に首をかける瞬間の男と遭遇した。
眼が合った。
「……後は台を蹴れば完成?」
「まあそんなとこです。蹴ります?」
「いや遠慮しとく。それより喉渇いたんだけど」
「コーヒーならありますよ」
「ミルクとあと砂糖も頼むわ」
すんなりと台から降りてくれたので、コーヒーを用意してくれている間にロープを解いて台を片付ける。簡単に心変わりするくらいならいっその事そのままどちらかに傾いて欲しい。
「どうぞ」
出て来たのは有り触れたインスタントコーヒーだった。やたら高価そうなカップとソーサーとは妙なバランスを保っている。男の淹れる物は実家で父親がこだわっていた物より若干薄くてミルクが多い。適当に座り込んで熱いそれに口を付けながら男の様子をちらりと窺ったが特にこれといって変わりはない。強いて言うなら手首の傷が少し増えたくらいだ。よく見ると男のシャツの胸ポケットから切れ味鋭い剃刀が顔を覗かせていた。
「もう少しで死ねたんですけどねぇ」
「助けなきゃそれはそれで怒るだろ」
「どうでしょうね」
すまし顔でコーヒーに口を付ける。コーヒーに何か仕込まれているのではないかという考えが一瞬だけ脳裏を過ぎったがそれはありえないだろう。一瞬で死ねるような、例えば青酸カリのような劇薬など使うわけがない。基本的に臆病なのだ、この男は。その証拠に未だすましたままコーヒーを啜り続けている。いっその事カフェインの過剰摂取で死ねばいいのに。
「ていうか他にバリエーションは無いわけ」
「じゃあ紅茶でも買っときますよ」
「だったらアールグレイがいいんだけどそういう事ではなくて」
「ああ、そりゃ放火して焼死とかでもいいんですけど、ちょっとリスクが高いし第一他人様に迷惑かけるじゃないですか」
硫化水素は迷惑の域に分類されないようだ。この男の頭の中では他人様よりも自分の方が優先されるのは間違いない。
「そんなに死にたきゃ静かな所で死ねばいいだろ」
「だからこうやって静かな所でひっそり死のうとしてるじゃないですかぁ。邪魔してるのは君でしょ?」
繁華街の喧騒に塗れた誰もが羨む高級マンションの一室というのは、一般的にひっそりとした場所として認識されていると考えていいものなのだろうか。空になったカップの底に溜まった砂糖の欠片を見つめながら考えていた。
「第一発見者になってやろうと思って」
立ち上がった男にカップを手渡すと、そのままキッチンへと向かっていった。かちゃかちゃと陶器の触れ合う音とそれを操る男の後ろ姿をぼんやりと見つめながら無機質なフローリングに転がった。
「要りませんよそんなもの」
男にこんな暮らしをさせておいて顔すら見せないようなパトロンが何をしているのかはちっとも知らない。少なくとも顔を見たことはないし、会っている様子もない。初めは寂しいのだろうと思っていたのだが徐々に違うような気がして来た。男が求めている物は金とか愛とかそういう範疇を遥かに超越しているのだ。
「なおの事樹海でも行けよ、コンパス持って」
「面倒じゃないですか」
自殺未遂を繰り返すよりはよっぽどマシな気もするのだが。気付けばまたロープを取り出して天井から吊るそうとしているではないか。さすがに眼の前で一から自殺行為を見せられるのは気分が悪い。垂れ下がった先に小さな輪が出来上がった辺りで止めようと身体を起こすと、男はまるでおもちゃを見つけた小さな子供のような顔をこちらに向けて来た。
「練習させてくださいな」
「練習?」
「そ、練習。今のままじゃ死に切れないって事がよく解ったんです。だから練習させてください」
アナタの首で。そう簡単に言ってのける男は心底楽しそうだった。もう何十回とこの部屋を訪れているが、帰れないなんて思ったのはきっとこれっきりになるだろう。
まるで男の魔の手に落ちたかのように身体はぴくりとも動かない。抵抗も反論も許されないままゆっくりと首に輪がかけられる。男の手は美しかった。あらためて間近で見ると、瞳も、鼻も、肌理細やかな肌もそのバランスの全てが美しいのだ。形の良い唇が優しく別れの言葉を囁く。今度こそ本当に彼の自殺癖から解放されるのかと安堵した瞬間ロープが強く引かれた。
自身を含めた殺人癖のある男だった。
2008-12-16 [Tue]
かちゃん、と耳元で異様な硬質音が鳴り響く。ぴっとりと耳に貼り付く恐怖を伴った冷たさに顔を背けると、後ろにぼんやりと佇む男がにやりと笑った。
「あれ? 怖いの?」
男はくすくすと笑いながらふう、といやらしく耳に息を吹きかける。いつもなら気色が悪いと一蹴するそれは、強引に感覚を奪われた今では生温くて心地良い物だった。無意識に逃げようと僅かに身を捩らせると、腰の後ろに回された両手が何かに引っぱられてぎしりと音を立てた。
縛られている。そう気付くまでは一瞬あれば充分だった。
「流石にね、そのままかちゃん、ていうのは可哀相かなって思ったんです」
痛いのは嫌いでしょう? 椅子に乗せられて身動きが出来ないこの身体卑猥な手付きで撫で回していく。髪を、口唇を、首筋を、胸を、男にしか触られた事のない様な場所から爪先まで残さぬように丁寧に。男は程良く冷えた耳に喰らい付くとそっと何かを囁いた。僅かな感覚も残らない其処から異様なまでに敏感に冴えた身体の奥まで、悪意とも善意とも取れない何かが侵入してくるのを感じて思わず睨み返すと、男は機嫌を損ねた子供の様に口を尖らせて頬に優しく一つ、キスを落とした。
「馬鹿な子」
男は静かに呟くと、それまで左耳に掲げていた硬質のそれで感覚の研ぎ澄まされた右耳を強く挟んだ。ぐっと反射的に身体を強ばらせると次の瞬間、がちゃんと派手な音を立てると同時に鋭い痛みが全身を襲った。
気に狂いそうな痛みに悶えて椅子ごと床に倒れ込んだ。がたんと部屋中に響き渡る音が何処か他人事の様に聞こえる。冷たい床の向こうに、組み敷かれたあの時によく似た快感を見付けて思わず笑ってしまった。
片目だけで見上げた男の顔は逆光の所為で表情までは判別出来なかったが、確かに同じ口元をしていたと思う。男は手を伸ばして来るが今この状態ではその手を握り返す事など出来ず、虚空を切る様に僅かに動かされた指先がやたら綺麗だった。ふと指先を自らに向けて見つめると、ふう、と小さく息を吐いて、目の前に座り込んだ。
「ねぇ一護さん、次は何処にしよっか? 左耳? 舌もありですよ、少しづつ広げて蛇みたいな舌にしてあげる。昔そういう小説流行りましたよね。それともアタシにしか見せない様な場所に空けちゃいます?」
くすくす、男は楽しそうに笑った。よく見たらちらりと口元から覗く赤い舌先が二つに割れているような気がした。
「アタシと全部、お揃いにしちゃいましょ?」
二つに割れた舌を持つ者同士のキスはどんな快楽をもたらすだろう。四枚の舌がぺちゃぺちゃ、くちゃくちゃ。艶めかしい水音を立てながら二倍の快楽に身を委ねる、想像しただけでも心の底から震えてしまいそうだ。
「イケナイ子ですね、本当に」
男はゆっくりと蛇の舌で頬を舐めてくる。まるで欲望の全てを喰らい尽くして行くようなねっとりとした動きだった。既に感覚を取り戻していた左耳を指先でゆっくりと撫でると、再び冷たいそれで挟み込まれて、嗚呼。
狂った快楽の扉を開けてしまった。
「あれ? 怖いの?」
男はくすくすと笑いながらふう、といやらしく耳に息を吹きかける。いつもなら気色が悪いと一蹴するそれは、強引に感覚を奪われた今では生温くて心地良い物だった。無意識に逃げようと僅かに身を捩らせると、腰の後ろに回された両手が何かに引っぱられてぎしりと音を立てた。
縛られている。そう気付くまでは一瞬あれば充分だった。
「流石にね、そのままかちゃん、ていうのは可哀相かなって思ったんです」
痛いのは嫌いでしょう? 椅子に乗せられて身動きが出来ないこの身体卑猥な手付きで撫で回していく。髪を、口唇を、首筋を、胸を、男にしか触られた事のない様な場所から爪先まで残さぬように丁寧に。男は程良く冷えた耳に喰らい付くとそっと何かを囁いた。僅かな感覚も残らない其処から異様なまでに敏感に冴えた身体の奥まで、悪意とも善意とも取れない何かが侵入してくるのを感じて思わず睨み返すと、男は機嫌を損ねた子供の様に口を尖らせて頬に優しく一つ、キスを落とした。
「馬鹿な子」
男は静かに呟くと、それまで左耳に掲げていた硬質のそれで感覚の研ぎ澄まされた右耳を強く挟んだ。ぐっと反射的に身体を強ばらせると次の瞬間、がちゃんと派手な音を立てると同時に鋭い痛みが全身を襲った。
気に狂いそうな痛みに悶えて椅子ごと床に倒れ込んだ。がたんと部屋中に響き渡る音が何処か他人事の様に聞こえる。冷たい床の向こうに、組み敷かれたあの時によく似た快感を見付けて思わず笑ってしまった。
片目だけで見上げた男の顔は逆光の所為で表情までは判別出来なかったが、確かに同じ口元をしていたと思う。男は手を伸ばして来るが今この状態ではその手を握り返す事など出来ず、虚空を切る様に僅かに動かされた指先がやたら綺麗だった。ふと指先を自らに向けて見つめると、ふう、と小さく息を吐いて、目の前に座り込んだ。
「ねぇ一護さん、次は何処にしよっか? 左耳? 舌もありですよ、少しづつ広げて蛇みたいな舌にしてあげる。昔そういう小説流行りましたよね。それともアタシにしか見せない様な場所に空けちゃいます?」
くすくす、男は楽しそうに笑った。よく見たらちらりと口元から覗く赤い舌先が二つに割れているような気がした。
「アタシと全部、お揃いにしちゃいましょ?」
二つに割れた舌を持つ者同士のキスはどんな快楽をもたらすだろう。四枚の舌がぺちゃぺちゃ、くちゃくちゃ。艶めかしい水音を立てながら二倍の快楽に身を委ねる、想像しただけでも心の底から震えてしまいそうだ。
「イケナイ子ですね、本当に」
男はゆっくりと蛇の舌で頬を舐めてくる。まるで欲望の全てを喰らい尽くして行くようなねっとりとした動きだった。既に感覚を取り戻していた左耳を指先でゆっくりと撫でると、再び冷たいそれで挟み込まれて、嗚呼。
狂った快楽の扉を開けてしまった。
2008-12-12 [Fri]
布団を開けるとそこは、
「……コイツ」
布団をめくるといつもは黒猫が出迎えてくれるのだが、今日に限っては何だか良くワケの判らない大きなオマケが付いてきた。
金髪で肌が白くて無駄に綺麗なそれは、しなやかな黒猫を腕に抱いて丸まっていた。
「何やってんだよ」
「あ、一護サン、寒いんで早く入ってきて貰えますか?」
「取り敢えず温めてくれた事には礼を言う、どうも。ホラ、さっさと出てけ」
空気を読んで飛び退いてくれた黒猫を無視して、金髪の腕を引っぱると無抵抗だった所為か簡単にベッドからずり落ちた。
「いったたたた……」
「ホラ、さっさと立てよ」
腕を掴んで立ち上げると本人の意思なんてお構いなしにドアまで押して進む。空気をすごく読める黒猫は器用に引き戸をカリカリと小さな手で開けてくれた。
「じゃ、おやすみ」
「あ、ちょ、一護さん?」
「入ってくんなよ」
まだ何か浦原は言いたそうにしていたけど遠慮無く引き戸を閉めさせて貰った。コレで俺の安全は守られたはずだ。
どうせ、鍵なんて付いていないのだけど。
お主も素直ではないのとか何とか黒猫はぼやいていたけれどそれはそれで素直じゃないんだから仕方がない。どうせあの金髪はほとぼりが冷めた頃に図々しく布団まで入ってくるのだから。
「……コイツ」
布団をめくるといつもは黒猫が出迎えてくれるのだが、今日に限っては何だか良くワケの判らない大きなオマケが付いてきた。
金髪で肌が白くて無駄に綺麗なそれは、しなやかな黒猫を腕に抱いて丸まっていた。
「何やってんだよ」
「あ、一護サン、寒いんで早く入ってきて貰えますか?」
「取り敢えず温めてくれた事には礼を言う、どうも。ホラ、さっさと出てけ」
空気を読んで飛び退いてくれた黒猫を無視して、金髪の腕を引っぱると無抵抗だった所為か簡単にベッドからずり落ちた。
「いったたたた……」
「ホラ、さっさと立てよ」
腕を掴んで立ち上げると本人の意思なんてお構いなしにドアまで押して進む。空気をすごく読める黒猫は器用に引き戸をカリカリと小さな手で開けてくれた。
「じゃ、おやすみ」
「あ、ちょ、一護さん?」
「入ってくんなよ」
まだ何か浦原は言いたそうにしていたけど遠慮無く引き戸を閉めさせて貰った。コレで俺の安全は守られたはずだ。
どうせ、鍵なんて付いていないのだけど。
お主も素直ではないのとか何とか黒猫はぼやいていたけれどそれはそれで素直じゃないんだから仕方がない。どうせあの金髪はほとぼりが冷めた頃に図々しく布団まで入ってくるのだから。
2008-09-29 [Mon]
「…きったねぇ」
「はい?」
その子供はじっと私の瞳を見つめて、いい加減飽きるだろうという頃にそんな事を呟いた。
「そんなに変な色っスかね」
緑がかった金色は、人工色ならば酷く複雑な配合をするだろう程に珍しい色だ。
「いや、ただ単に俺の頭」
「頭?」
「お前の瞳が緑だろ?俺の頭がこんな色だから、映るとすっげぇ変な色になるんだよ」
「あー…まぁそうなりますねどうしても。きったない茶色みたいになるんでしょ?」
「ああ、何か、黒に近い茶色」
「街中の夜空みたい」
「夜空になるならお前は月か」
金色だもんな、と言って無邪気に笑う。つん、と額をぶつければ甘えるように腕を絡めて来た。
「じゃあ一護さんは?」
「俺?えー…あー、あ、オレンジ?」
さすがにそれは無いだろうと笑うと、照れ臭そうに彼も笑った。何て眩しい、広い闇に浮かぶ橙なら太陽で十分だ。
「はい?」
その子供はじっと私の瞳を見つめて、いい加減飽きるだろうという頃にそんな事を呟いた。
「そんなに変な色っスかね」
緑がかった金色は、人工色ならば酷く複雑な配合をするだろう程に珍しい色だ。
「いや、ただ単に俺の頭」
「頭?」
「お前の瞳が緑だろ?俺の頭がこんな色だから、映るとすっげぇ変な色になるんだよ」
「あー…まぁそうなりますねどうしても。きったない茶色みたいになるんでしょ?」
「ああ、何か、黒に近い茶色」
「街中の夜空みたい」
「夜空になるならお前は月か」
金色だもんな、と言って無邪気に笑う。つん、と額をぶつければ甘えるように腕を絡めて来た。
「じゃあ一護さんは?」
「俺?えー…あー、あ、オレンジ?」
さすがにそれは無いだろうと笑うと、照れ臭そうに彼も笑った。何て眩しい、広い闇に浮かぶ橙なら太陽で十分だ。